「大山阿夫利神社」に行きたいな〜と思っていましたら、なんと近所に分社があるではないですか!
ということで「大山阿夫利神社御分霊社」へ






綺麗にされているお社、いろいろな気づきに恵まれるようお祈りをする。
「大山詣り」の大山阿夫利神社にも近々行きたいとは考えているのですが、なかなかスケジュールの都合がつかず見送りになっています泣
らーめんAFURIが大山阿夫利神社下社に期間限定出店いる間に行きたいですね!AFURIの柚子塩らーめんはほんと美味しいので食べた事ない方は是非行かれてみてくださいね。



本殿の横には小さなお社もあり、木彫りが見事でした!
基本情報
大山阿夫利神社御分霊社(おおやまあふりじんじゃごぶんれいしゃ)
| 御祭神 | 大山祗大神 大国主大神 太閤豊臣秀吉公霊 |
| 住所 | 神奈川県大和市下鶴間 |
境内にはこちらを管理されていると思われる旧家の歴史の石碑があり、こうしたご先祖様の歴史を残してくださっていて感謝。


元新田氏 髙下宗家は観音寺よりも歴史は古く

鎌倉時代以前より此の地に処住

当家の往昔史
相模国風土記稿に観音寺境内に板碑
二基ある事が明記されている建武五年 延文二年 墓石は
髙下元祖・新田氏の墓より出土した者也新田軍の鎌倉進路
南朝忠臣新田氏縁の家
挙兵六百五十年記念

元新田氏の歴史と其の由来
南朝之忠臣元新田氏の髙下宗家は相洲下鶴間村の由緒ある旧家であった。元弘三年「西暦1333年」鎌倉攻めを行った新田義貞公の流れを汲む当地の豪族であった。現在の観音寺より歴史は古く観音寺は当家の先祖が土地を寄進し開基したと当家に伝えられている又寺住職墓地とされている処は当家の先祖である新田氏の墓地でありその墓主である髙下半左衛門に登記済みであるその墓地に正慶元年、建武五年、延文二年の三基の板碑があった。これは新田公が鎌倉攻めの時戦死を遂げた武士たちの墓にあった供養碑である建武五年、延文二年の二基については新編相模国風土記稿に見えるものである。これが明治元年辰十月盗難にあい観音寺より紛失は申し訳ないと墓主髙下半左衛門あてに詫び証書が残っているこの板碑と共にあった無名の板碑一基と一部破損の三基は寺本堂の地下室に預けてある現在髙下家先霊墓地は明暦時代に髙下氏の往昔は新田氏の先祖の姓名之処髙下氏に改名を致す者也今度先霊の為供養石塔には新田院髙雪了空居士天正元年天九月三日と刻まれている当家には東という屋号がある又墓地が二ヶ所あった鎌倉幕府の北条氏を打ち破った義貞公はその後越後国福井県藤島の戦いに於て戦死を遂げられた義貞公の後の新田氏は足利幕府に所属し静かに余生を送っていたが時は室町末期の頃である先祖が髙野山に参詣し新田氏祖霊供養のため髙野より僧師を迎えて寺を開祖したと云う。又代々の宋の墓は新田氏の墓地を見守るが如くに手前右側に小さくあった。天正年代頃以前は新田氏と僧の墓地のみであり其後に一般墓地に開放したのである。これ以前の古い石碑では当家の正慶、建武、延文の板碑があるのみでそこで先祖が髙野槇を受けて新田氏の墓地に植え寺の名前を別名東の寺とも称しこれが観音寺の始まりだと当家に伝えられている。その槇の木は昭和50年の秋まで枯木で巨大な姿を残り下鶴間の古い歴史を誇る県の重要文化財として何時までも残して置きたかった。髙下宗本家の歴史を物語る貴重な存在であった。
新田軍の鎌倉進撃路
新田氏関係地名





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