いつものように仕事をしながらYoutubeを観てたら、
不意に目に飛び込んできた「神奈川県の月見野遺跡群」の文字。
世界の謎や神話、歴史を解説してくれるYouTubeチャンネル「TOLAND VLOG」さんのファンとしては、近所にある月見野遺跡群の話題が例え一瞬とはいえ出たらもう行くしかないです。
近所に遺跡あるのは知ってましたが、そんなすごい遺跡なんて知らなかったです。
それだけ古い遺跡がある場所ということは古くから人間が住める土地であった証拠。安心感が増しました。
で、その「神奈川県の月見野遺跡群」が出ていた動画がこちら↓↓↓
月見野遺跡の箇所から始まるように設定してますが、ぜひ初めから観てみてくださいね!
今回もロマンあふれる超超超考察がされており面白かったです!
今では「月見野遺跡群」住宅地や公園になっており、遺跡の片鱗は私には発見できなかったのですが、遺跡探索行ってきたのでご紹介します!
月見野遺跡群
まず動画内で出ていた看板を地図を確認しましょう↓
東急田園都市線つきみ野駅(渋谷より約40分)の駅前にある、つきみ野1号公園にありました。

月見野遺跡群
現在、この周辺は見わたす限り家並みが連なっていますが、昭和30年代までは緩やかな起伏のある野原が広がっていました。東京急行電鉄株式会社による宅地造成工事が始まり、「相模野研究グループ」のメンバーによって現地から17箇所の旧石器時代の遺跡が発見され、将来この地域が「月見野」と呼ばれる予定であったため、月見野遺跡群と命名されました。そしてこれらの遺跡のうち10箇所が明治大学考古学研究室の協力により、昭和40年・44年に発掘調査されました。
調査は当時としては、広く面的に、そして、深く進められ、狩人達が約2万年前から1万年前に残していった多量の遺物が発見されました。そして、石器群や遺跡の成り立ちについて時間を基軸として考察し、当時の生活を復元するという新たな研究方法が試みられ、それは学史上「月見野・野川以前と以後」と呼ばれるような、岩宿遺跡に始まる旧石器時代の研究を大きく変える画期となる著名な遺跡群となりました。
大和市教育委員会
地名の由来
現在のつきみ野の地は、かつて下鶴間村と呼ばれていたそうです。
「鶴間」という地名の由来にはいくつかの伝説があるそうで、源頼朝が富士の鷹狩りの帰途この地を通り、鶴が舞うのを見て「鶴舞の里」と名づけたというものや、源義経がこの地を通ったときに鶴が舞うのを見たというものが由来になっているようです。さらに鎌倉時代以前の地名もご存じでしたらコメント頂けると嬉しいです。
月見野遺跡群の看板の下にある「大和市つる舞の里歴史資料館」も近々訪れたいと思います。
「つきみ野」の由来は、周辺に咲き誇っていた月見草にちなんで
土地区画整理組合により「つきみ野」と名付けられたそうですよ。

月見野遺跡群第ⅢC遺跡
次目指すのは月見野遺跡群第ⅢC遺跡です。鶴舞通りを下っていきますよ。
野球場を過ぎ、閑静な住宅街を進みます。
つる舞の里歴史資料館をこえてさらに進みます。ありました!

月見野遺跡群第ⅢC遺跡
この場所は昭和44年に明治大学故杉原荘介先生・戸沢充則先生を発掘調査担当者として、同大学考古学研究室による調査団が組織され、発掘調査された遺跡群の中の一つです。
本遺跡は調査された10箇所の遺跡の中で第Ⅱ遺跡と並ぶ最大規模の遺跡となりました。石器群は立川ローム層L2層とB.B2 U層の上下に文化層が重複して出土しました。下層からは狩猟具の中心としてナイフ形石器と若干の角錐状石器、加工具として掻器を石器装備とした内容の石器群が得られました。これらの資料は平面的に散漫に出るのではなく、11箇所の石器ブロック(石器が視覚的なまとまりを持って出土している範囲)を形成していて、目黒川に面した張り出し状の台地上に数戸を超える数のイエが立ち並ぶ旧石器時代のムラの存在が推定されました。こうしたムラが単一の集団により数字にわたり残されたものか、複数の集団により残されたものなのか、研究方法の確立とも併せ、興味深い問題です。
大和市教育委員会
月見野遺跡郡上野遺跡第1・2地点
次ご紹介するのは月見野遺跡郡上野遺跡第1・2地点です。
先ほど駅前の月見野遺跡群の看板があったつきみ野1号公園の横の道を下って登った場所にあります。
ここは目黒川がある関係で、高低差きついので水分補給されてくださいね。

市営住宅の金網の向こう側で見えにくいのですが、読んでいきましょう。
月見野遺跡群上野遺跡第1・2地点
この周辺はつきみ野住宅・つきみ野アネックス建設事業に先立ち、埋蔵文化財の発掘調査か昭和54年から57年にかけて行われ、旧石器・縄文・平安時代の重複遺跡であることがわかりました。
旧石器時代ではこの土地で約2万数千年前から8時期にわたり、厳しい自然環境の氷河期の中、狩人達が獲物を追い求めながらキャンプ生活をし、石器製作等を行っていました。彼らの使う狩猟具はナイフ形石器から尖頭器、そして細石刃へと変化しました。寒冷な気候から温暖な気候へと振り幅を繰り返しながら移行していく中で、細石刃を狩猟具としていた集団が、土器の焼成技術を獲得し、縄文時代の幕開けとなります。本遺跡からは日本最古に位置付けられる土器片が出土しています。これに引き継ぐ資料として隆線文系土器群と石器群が得られており、2個体の飼料が完形に復元されており、土器の発生期を考えるうえで貴重な資料となっています。
大和市教育委員会
月見野遺跡群第Ⅱ遺跡
続きまして、つきみ野中学校に東側、大和高校との間にある月見野遺跡群第Ⅱ遺跡です。

月見野遺跡群第Ⅱ遺跡
この場所は昭和42年に明治大学考古学研究室により編成された調査団が、東京急行電鉄株式会社の委託により、発掘調査を実施した旧石器時代の著名な遺跡です。
調査団により調査された10箇所の遺跡の中でも第ⅢC遺跡と並び大規模な遺跡となりました。資料は関東ローム層(赤土層)の最上層である立川ロームのB.B1層から出土していて、文化層が重複していることがわかりました。
氷河時代の狩人達が残していった道具として、狩猟具にはナイフ形石器、尖頭器があり、加工具には削器・掻器・彫器があり、植物加工に用いられたと推定される磨石もあります。また、こうした石の道具を制作するための材料である石核も発見されており、当時の石器装備を考えるうえで重要な資料です。また、調理・暖房用具である礫群(川原石を数十個集め火をたいた施設)も15箇所検出されていて、ムラの姿を復元するうえで良好な遺跡となっています。
大和市教育委員会
月見野遺跡群上野遺跡第3地点
月見野遺跡群第Ⅱ遺跡からつきみ野中学校と大和高校の裏を通り、月見野遺跡群上野遺跡第3地点へ。つきみ野4号公園に立っている看板を見てみましょう!

月見野遺跡群上野遺跡第3地点
この遺跡は、昭和59(1984)年に実施された、つきみ野大規模な宅地造成工事に伴う発掘調査によって発見されました。調査開始時には、工事によって既に関東ローム層の上部まで削平されていましたが、かろうじて旧石器時代の遺跡が確認されました。
この遺跡からは、狩猟具である尖頭器、切裁具であるナイフ形石器や彫器、加工具である錐といった石器が出土しており、暖房もしくは調理の跡と考えられる礫群も発見されました。
発見された石器の中には、石を打ち欠いた際に出る小さな破片が数多く含まれており、当時の人々がこの場所で石器を作っていたことがわかりました。また、出土した石器の材料には、大和市周辺地域で採集される玄武岩や、遠隔地から運ばれた黒曜石が使われています。玄武岩製の尖頭器は比較的大きいものから、中形、小形のものがあり、黒曜石製の尖頭器は比較的小形なものが多いです。上野遺跡第1地点の同時期の資料と照らし合わせたところ、石器の大きさや使用目的によって石材を使い分けていたことがわかりました。
大和市教育委員会
「遠隔地から運ばれた黒曜石が使われています」
「遠隔地から運ばれた黒曜石が使われています」
「遠隔地から運ばれた黒曜石が使われています」
きましたね!
大事なことなので3回いってみました笑
これTOLAND VLOGさんで言われていた「神津島産の黒曜石」のことですよね!
これは興奮します!!
遠隔地(神津島)から運ばれた黒曜石
ちなみに神津島はどこかというと、こちら↓
つきみ野から直線で約147 km、現在は伊豆半島の下田から2時間半の船旅で行ける位置です。
定期船で島を巡るクルージングもできるみたいですよ!神新汽船(ワンデークルージング)
私が思うにですね、相模湾にある江ノ島が河口の境川を上り、さらに目黒川でつきみ野の近くまで来ていたのではないかと考察してます。相模湾から川を遡って考察していくのもやってみたいですね!
つきみ野駅周辺の文化財
最後にこの辺りの文化財を見ていきましょう。

今回紹介しました月見野遺跡群をはじめ、古来より式内石楯尾神社として鎮座しており、鎌倉時代中期のころ諏訪社として祀られた相州下鶴間諏訪神社、観音寺や旧家、古道など近年整備された地域だと思っていたが、かなり歴史のある地域ということが判明した。
近所でも歴史散策ができて、いい街に引っ越してきたな〜と思う今日この頃でした。



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